農業を通じて宮古の復活を目指す

宮古島の自然農法家・川平俊男氏に聞く、農業を通じた地域再構築の可能性

宮古の人々には、伝統的に受け継がれる
不屈の精神があります。

「だからこそ、若い人たちにはもっと胸を張ってもらいたい。
宮古の宝を一緒に掘り出そうと、
僕はいつも彼らに伝えています」


宮古島で無肥料自然栽培を実践する川平俊男さん。
生粋の農家さんかと思いきや、お話をうかがって、
想像をはるかに超える経歴の持ち主だったことが分かりました。

学者志望→ビジネスマン→教育者。
そしてたどり着いたのが、自然農法家として生きる道。
「宮古島の農業を支える」という使命のために、生産者としての営みを超越した活動を続ける川平さんに、 自然農法家の道に至った経緯と、これからのビジョンについて語っていただきます。

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幼少期からの夢は実らず

中川社長 川平さんは小さな頃から農家を継ぐつもりでいたのですか。
川平俊男氏
まったく継ぐつもりはありませんでした。農家に育ちましたから、家業の手伝いは毎日していましたが、子どもの頃から化石集めや望遠鏡で天体を眺めるのが大好きで、高校を卒業した後は、沖縄の振興と人材育成のために琉球大学の先生になる、という条件付きで奨学金をもらい、地学の研究のために島根の大学に進学しました。

当時はまだ空路がなかったので、まずは船で那覇に渡り、鹿児島に向かう船を待って那覇で数泊、鹿児島から山口に移動してさらに島根へと、一週間を費やす長旅でした。宮古の人間にとって日本はまだ外国でしたから、パスポート片手の大移動でした。
中川社長 大学を卒業してから宮古島に戻られたのですか。
川平俊男氏 いえ。卒業する前に、南アメリカに留学をしようと思い立ったんです。地学が大好きだった僕にとって、南米は非常に魅力のある大陸でした。大学を休学して東京に出て、複数のアルバイトを掛け持ちして留学のための資金作りに没頭しました。

僕が見た宮古島の景色は、壮絶でした。土地という土地がカラカラに干上がっていて、収穫はゼロ。テレビで見るアフリカの大干ばつ並みの風景です。結果としては、この大干ばつが、宮古島に地下ダムを作る灌漑事業のきっかけになったのですが・・・。
家畜の牛や馬もつぶして食べるしかないほど切迫した状況のなかで、長男である僕は、弟妹たちの面倒をみないわけにはいかなくなってしまったのです。

留学を断念した僕は、すぐに那覇に向かいました。那覇ではいろんな仕事をして、家族に送金し、弟妹たちを卒業させました。バス代を節約するために、首里から那覇まで5km近い距離を毎日歩いて通った時期もあります。掛け持ちの仕事で寝る時間もないくらいでしたが、体は鍛えていたので乗り切れましたし、家計を支えるためにがむしゃらに働いているのは僕一人だけでもなかったので、つらく感じることはなかったです。むしろ、ホテルの夜警からダンプの運転手まで、ありとあらゆる仕事を経験して、いろんな意味で勉強になったと思っています。

弟妹が学校を終える頃には、縁あって那覇市内で本屋を経営しはじめました。その頃、僕は、あらゆる学問がこの先どのように転換していくのか、本質的なことを見極める必要性を感じていました。そこで農漁村文化研究会を立ち上げて、仕事をしながら自分なりに勉強をするようにもなりました。 留学を考えていた当時から、学問だけでなく、さまざまな技術や仕組みも、大きな転換期を迎えつつあることは意識していました。

たとえば、地質学というと、もとは中世の時代から、貴族を中心に小さな規模でやってきた学問でしたし、大学の先生もそういうタイプが大半でした。ところが、僕が大学にいる頃にはすでに、国家予算をつぎ込む巨大科学に変わりはじめていて、いくら研究を深めようにも、学問全体としての「ひとこま」でしかなく、全体を見渡すことはできない段階に入っていました。

農業を学問する

川平俊男氏 農業もまた、世界的規模でおかしくなってきていました。解決することができない世界各地の飢餓の問題は、その最たるものです。

介護と農業を両立させるため、収穫した農作物は自宅に持ち帰って出荷準備


世界の農村地域がどのような方向に進んでいるのかを知れば知るほどに、地学が好きだからといって、それだけで生きていってよいのかと悩むようにもなり、考え続けた末に、地学は趣味とすることにして、農業が抱える問題に真剣に取り組むことを決意しました。

ちょうどその頃から、宮古島にいる母親が頻繁に倒れるようになりました。母親の様態をみるために那覇⇔宮古島間の移動を繰り返していたのですが、ついには寝たきり状態になってしまったため、10年以上経営していた本屋も人に譲り、ひとまず宮古島に戻ってくることにしたのです。
中川社長 宮古島に戻ってからは、何をされていたのですか。
川平俊男氏
小さく畑もやりながら、5年間、自然塾というものをやりました。友人の子どもたちを預かって、彼らに自然との関わりを教える塾です。

僕が小学生の頃の先生というのは、地域の中心的役割を担っていました。そのため、高学年になると、テストの準備や学習資料の作成など、忙しい先生のお手伝いをするようになっていました。そんな経験もあって、僕は教育の現場が好きだったんですね。

研究者として自分の好きな勉強ができる環境ではなくなり、将来を方向転換せざるをえなくなっていたので、これからどういう方向に進むのかということを考えた結果のことでした。

宮古の歴史がはぐくんだ自立心

中川社長 自然塾から本格的な農業への転換のきっかけは?
川平俊男氏 自然塾をしながら次第に、子どもたちの親である農家の販路拡大の手伝いや、流通コストを安くするための交渉などもするようになっていきました。情報不足の島のなかで、作ったものが売れずに四苦八苦している農家に代わって、いかにして農業を軸とする経済基盤を作るかということを考えるようになったのです。

大手スーパーが進出してくる前のことでしたので、青果物は小さなスーパーや雑貨屋が販売していました。ところが、ありとあらゆるところをまわったものの、どのお店も宮古島産の青果を扱おうとしませんでした。宮古島の農家の現金収入の源は、国からの補助金が出るさとうきびと葉たばこだけだったのです。

沖縄返還前から、日本政府は経済圏として宮古に介入してきました。詳しくはこの後にお話ししますが、ひとつ断言できるのは、宮古島の農家を堕落させたのは日本政府によってお膳立てされた、さとうきび栽培だったということです。 さとうきびは、糖度と重量さえ基準をクリアしていれば、決まった額で確実に買い取られます。工場で加工されるものですから、質も色も形も関係ありません。生産者側にしてみれば、品質云々という発想がまったくなくなってしまったのです。
中川社長 いまの宮古島の農業には、過去の歴史が大きく投影されているのですね。
川平俊男氏
アメリカの占領下だった時代、宮古の人たちはとても自立していました。僕が通った学校でも、机や椅子は自分で作りましたし、台風がきたら木の下で授業をしました。自分たちで何でも作るし、修理もしてきました。そうやって自分たちの手で立ち上がるしかなかったんです。

米軍は、強制的に収容した土地を基地として使うだけで、統治はするものの、お金は出さなかったんです。日本国の助けも借りられず、弾圧された状態のなかで、産業が発展する素地はありませんでした。本土における戦後の焼け野原からの立ち直りのきっかけが、私たちには与えられなかったのです。

本土復帰のときには工場が作られる話も出ましたが、復帰がおくれたために実現しませんでした。いまになってみれば、そのおかげで島が公害によって汚染されずにすんだのですが・・・。 本土復帰の交渉が水面下で進みはじめた時期、日本政府は、宮古の産業を育成することはせず、抵抗勢力となりうる自立意識をつぶしにかかりました。その頃の宮古の人々は、宮古群島政府を作ろうというくらい独立意識が高かったのです。

当時、地域のリーダーを務めていたのは学校の教師たちでしたから、日本政府は教師と公務員の給料を思い切り引き上げ、立派な施設も与えて優遇したんです。同時に、さとうきびと葉たばこを栽培する農家には補助金を出すことにしました。行政は、当時の宮古の人たちに芽生えていた自治の志や活力を、いとも簡単に奪い、復帰後も職員の給料を上げて、次から次へと施設や設備を作りました。
中川社長 お金をどんどん流してきて、要らない道路を作り、無駄な埋め立てをするばかりで、農漁業や、その加工、流通発展の道に進むことはなかったのですね。
川平俊男氏 そういった地域産業を作り上げていくのとは逆のことが意図的に行われ、その内部を空洞化してきたというのが宮古の歴史です。ご存じの通り、宮古島には原発も基地もありません。すばらしいことではありますが、政府にとってみればお荷物的存在です。いずれ、見返りはなくなることでしょう。 だからこそ僕はいま一度、農漁業を基礎とした地域づくりの再生を目指そうと考えています。

僕が子どもの頃はまだ、さとうきび栽培は生活の一部でしたし、よいものを作ろうという意識もあったと思います。農家は、穀類や豆類、麦、大豆その他、いろんなものを作っていましたし、それらはすべて、島内で消費するためでしたから。

宮古島産の農作物が売られていない事情

中川社長 それにしても、宮古島の農家が栽培する農作物が、島内でまったく流通していないというのは、あまりにもおかしなことですね。
川平俊男氏
そうなんです。この状況に大きな疑問を持った僕は、まずは流通の仕組みを学ぶことからはじめようと考え、野菜の仲卸をしている青果商の会社で半年間、手伝いをしながら勉強させてもらいました。その会社は、島内の学校給食、病院、Aコープなどに野菜を提供していて、僕はそういった組織に見積もりを出す仕事を任せられました。その仕事を通じてはじめて、実にいろいろなことが明らかになったんです。

たとえば、学校給食や病院ですと、食材の選定は栄養士が決定権を持っていました。彼らは、宮古島の農業に何の関連も関心も知識も持っていません。「農薬を使っていない野菜がある」と僕が説明しても、それは要らないから鹿児島産のものを持ってきて、と指定してきたのです。

それ以上にひどかったのが、青果業者側の問題です。彼らは、自分たちの利益を確保するために、宮古島産の青果物をお店が受け入れないよう、裏で圧力をかけていたんです。

島内産のものがどんどん出回りはじめると、生産者は直接お店に持ち込むようになります。自分たちが儲からなくなることをおそれた青果業者は、宮古島の農家が持ち込む価格よりも、赤字でもよいからずっと安い価格で提供して、地元農家を完全に排除しようとしました。 僕が半年間働いた会社でも、やはり宮古島産のものを仕入れることはありませんでした。
僕が小さな農家をまわって、農作物を相場で買い取って流通させようとしたら、上司にこっぴどく怒られたこともあります。
中川社長 今でこそ、スーパーには地場産ものも少しは並んでいますが、あれらは?
川平俊男氏 僕がその後、直接営業してまわった成果なんです。親しくしていた地元のスーパーの社長が、「宮古島産のものを沖縄と八重山に出荷しよう、必要だったら本土でも提携先を探すから」といってくれたのです。販路は用意するから、後は、生産者をしっかり指導しろと。

僕は、商品価値のある農作物を作ることができそうな農家を探しては、商品サンプルを持参して説得し、バイヤーには彼らの畑を案内しました。最初は、40人ほどの生産者を確保できたでしょうか。

その後も、ほかのスーパーと交渉しました。3年くらいで生産者は90人まで確保し、交流会や勉強会なども継続しながら実績を積み上げてきたのですが、やはり生産者にとって、提示される条件は厳しすぎるものだったでしょう。抜き打ち検査で残留農薬が検出されてしまったため、スーパーの無農薬コーナーが撤去されてしまったこともあります。残留農薬に関しては、周辺農家の影響もあって完全にはコントロールしきれなかったのです。

そうこうしているうちに、大型スーパーが進出してきて、地元産排除の流れは加速しました。農協はというと、本土での流通に乗って、東京や大阪の市場に島内産の農産物を出荷しはじめ、ますます島内には地元産の野菜がなくなっていったんです。お店に並んでいないから、誰も買えません。こうして、消費者にとっても「島外産の野菜が当たり前」という認識が完全にできあがってしまいました。
中川社長 いま、「地産地消」という流れがあります。ただでさえ、離島の離島という土地柄ですから、フードマイレージを考えても宮古島産の農作物は島のなかで消費した方がいいに決まっているのですが・・・・・・
川平俊男氏 ところが実際には、他府県では当たり前のことが、ここ宮古島ではそうではなかったんです。島のものは無価値で、島の外のものだけが商品になりえる。それが当たり前になっていました。 作ったところで売れないわけですから、農家としては当然、商品を作ろうという意識や努力はまったくありません。これは生産者側の問題ではありますが、農協のスーパーすら地元のものを採用しませんでしたし、地元の農家を育てようとはしていなかったのです。

無農薬へのこだわり

中川社長 川平さんが流通させようとしていたのは、無農薬栽培の農作物だったとのことですが、ご実家は無農薬栽培の農家だったのですか。
川平俊男氏 当時は無農薬有機栽培を基準にしていましたが、島内には十分な有機肥料がなかったため、堆肥作りから自分で考えてやっていましたね。自然塾の学習材料として栽培の経験もあった芋からはじめ、徐々に品目も増やしていきました。

ところが、徐々に基盤が固まりつつあるなかで、船便のトラブルが頻発するようになったんです。積み込む予定の青果物を港まで持ってきても、手前の八重山島で荷物がいっぱいになったからと積んでもらえなかったり、スイカ5000個を冷蔵コンテナに積んでいたのに、電源を入れずに放置されたり。青果物が無駄になるだけでなく、弁償もしないといけなくなります。当時は保険もなかったですから、とんでもない状態でした。
一度や二度ではなく、それも平気でやられてしまうんですから、こんなことやっている場合じゃないと思いましたね。やはり自分は、生産者にまわるしかないと実感しました。

生産者として生きる

中川社長 では、その頃にはもう完全に農業の道を歩む決意をされていたのですね。
川平俊男氏 本音をいえば、留学を断念していたわけではなく、留学準備をしながらその間は、宮古島でできることをなんでもやろうと思っていました。

ところが、長男が無事高校を卒業し、いろいろなことを整理して勉強をしはじめたんですが、また母親が倒れてしまいました。ほかの兄弟は誰も面倒をみることができないといいます。父親も認知症が悪化して大怪我までしてしまい、僕がずっとそばにいるしかない状況に追い込まれました。 両親を看取るために宮古島に残る決意をした僕は、親の看病もしながら、生産に集中しようと覚悟を決めました。農業環境はどんどん悪化していましたから、元々の専門は農業関係ではないけれど、やるからにはとことんまじめに取り組もうと思ったんです。

有機農法か、無肥料自然栽培か

中川社長 有機農法から、無肥料自然栽培に転換された理由を聞かせてください。
川平俊男氏 無農薬有機栽培を推進して、講演会や勉強会、土壌分析、酵素を作って利用するなど、いろいろな取り組みをしてきましたが、数年前から考えが変わってきました。これからは、有機栽培ではやっていけないと確信するようになったのです。

先にもお話ししたように、以前は宮古島で堆肥を確保することは難しかったのですが、いまは九州地方で処理しきれない堆肥が運ばれてくるようになりました。それらは、地元九州の農家からは使用拒否されるような代物です。それが沖縄県に引き取られることになったんです。堆肥を投入した土は窒素過多でまっ黒になり、質の悪い作物しかできません。

化学肥料から有機肥料への移行は全国的に進められていて、各行政も助成していますが、そこには、化学肥料のリンの入手が難しくなってきているからという裏事情があります。そして、その有機肥料にも限界があるんです。

僕はいつも、地球規模で物事を考えることが重要だと思っています。農薬や化学肥料の使用は論外として、有機栽培にしても、地球規模で取り組めるものではありません。アフリカでは人間の食料さえも不足している現状、地球的全体でみたら、有機農法は絶対に成り立たちません。つまり、有機農法に未来はないんです。

「長く続いた奴隷的農業から、文化的・産業的農業に転換させたい」

20年近く有機農業をやってきましたが、やればやるほど、このやり方はおかしいのではないかという疑問がどんどん湧いてきていました。

マグネシウムが足りないから補充する。来年は別のものを補充する。毎年これを繰り返し、「なんだかきりがないぞ、おかしくないか?」と思っているうちに、土壌は悲鳴をあげて、ついにお手上げ状態になってしまう。
有機栽培ではあるけれど、中途半端な西洋科学を取り込み、生産者であるはずが、いつのまにか学者のようになってしまっていたんです。そもそも自分たちは何を目指しているのかと真剣に考え込むようになりました。

事実、有機栽培で育てたトマトもかぼちゃも、ほんとうにおいしくてからだによいかというと、必ずしもそうではありませんでした。一番大事なことなのに、有機農法はそのことを忘れてしまったのです。

食べ物を通じて地域作りをすると決めたものの、「有機農法でほんとうに実現できるのか?」という疑問はますます大きくなりました。そうして、さまざまな勉強会も重ねながら、無肥料自然栽培と、その新たな流通なくしては、宮古島の農業に未来はないという考えに至りました。

宮古島の自然環境を憂う

川平俊男氏

「明日には鳥が食べちゃう」もぎたてのドラゴンフルーツも自然栽培のもの

僕は、一昨年くらい前から本格的に無肥料自然栽培で農作物を育てています。それ以前からずっと試験的に研究してきましたから、経験的に分かっていたことですが、土地から肥料が抜けることで微生物の連鎖システムが機能し、増収することが、農業試験場の研究結果として出ています。ただ、残念なことに公開はされていないのが現状です。

宮古島の農業に農薬が使われるようになって、わずか10年で地下水が汚染されてしまいました。トンボもホタルも姿を消しました。でもいま、僕の農地にはトンボが飛んでいますし、ミミズもほかの虫もどんどん増えてきています。一時期はアブラムシに困りましたが、アブラムシの天敵であるテントウムシもきてくれるようになりました。

「有機農家は除草に明け暮れて気の毒」雑草を残せば害虫が減るのにと川平さん


有機肥料を投入することをやめて、雑草を残すことで、虫の害も激減しました。本来の自然循環が、復活してきていることを実感しています。

理論的に理解していなくても、経験的に分かっているという人は僕以外にもたくさんいます。具体的には、おばあたちがやっている昔ながらの野菜作りです。農薬も肥料もない、手作業の農業のカタチを、話で聞き、あるいは直接見てきた人たちがまだまだ宮古島にはいるんです。
中川社長 有機農法から無肥料自然栽培への転換は、大変なものでしょうか。
川平俊男氏

黄色い花が咲く川平さんのヘチマ畑。これからどんどん実になっていきます

通常、転換には三年かかるといわれています。それをいかに短縮するかが課題になりますが、僕なりの方法論は持っているつもりです。転換するときにも雑草の力を借りて、しっかりと地力をつけていくんですが、「こうだよ」とはまだ断言できない段階なんです。

現状、「僕はこうしている、参考にしたら?」としかいえませんが、同じやり方でやってみてくれる人がさらにたくさん現れて、さまざまな経験の共有が進むことを期待しています。

実際、農家ではないけれど、家庭菜園は持っているという人たちとの縁がこの数年ですごく増えたんですよ。勉強会をすると、集まる人の9割は農業を生業にしていない人たちです。農業の専門家ではない彼らのほうが、農家よりも勉強熱心なんです。販売や流通のなかには加わらないが、無肥料自然栽培で生産することへの興味はあるという人たちがとても多くて、つまり、食や健康に対する意識が高まってきている証拠なんでしょうね。

若い人たちとの交流もいつも大切に。仲間の輪はどんどん広がります



宮古島では、平均所得が毎年減ってきています。パートの採用も減って、収入がなくなってきているんです。そんな家庭の主婦が、素人ながらも小さな土地で健康な野菜を作って、いくらかを収入にできるとしたら、すばらしいことだとは思いませんか。子どもと一緒に農作業をすることもできますし、知恵と経験を頼って、年寄りとの交流もまた深まると思うんです。

いずれにしても、無肥料自然栽培で生産をしようという人たちが徐々に増えてきていることは事実です。たとえばトマトひとつとっても、みかけは有機栽培のもののほうが大きくて立派ですが、自然栽培されたトマトのほうが格別においしい。昔ながらの味がするといわれます。そういう声が少しずつ聞こえはじめているいまは、まさしく宮古にとっての大きな転機なんです。

宮古島における無肥料自然栽培の農産物は市場に受け入れられるのか

中川社長 宮古島での、新しい農業のカタチがずいぶんイメージできてきました。
川平俊男氏 とはいえ、農業といっても事業ですから、事業ベースで成り立たないと意味がありません。生産者に働きかけたものの、技術や知識がなく、質のよいものを作ろうという意識もない状態では、これまでの活動はなかなか広がりませんでした。
しかしながら、いろんなつながりは成果物として残っています。それを軸に、もう一度やり直します。いまは、流通の問題も含めて、地域産業として成り立たせるための試行錯誤の段階だととらえています。
中川社長 本土で無農薬や減農薬の野菜を流通させている会社とはご縁がおありとのことですが、自然栽培の農作物への関心はいかがですか。
川平俊男氏
残念ながら、自然栽培となると、その関心は極めて低いのが実情です。
生産のための勉強会は何年も続けてきましたが、いまは、自分たち自身で流通を作り出すことに焦点をあてています。

宮古の人の特徴として、郷土意識が強いことが挙げられます。これは、島外に出た人ほど強い傾向にあります。那覇地区だけでも、宮古の人口の何倍もの宮古島出身者がいるんですよ。まずは、そういった宮古島に愛着のある人たちに対して、文化的なつながりもふくめて働きかけようとしています。

無肥料自然栽培で育ったタマネギ。生でいただきましたが、とっても甘いんです!

生産者という側面では、みんな着実に成長してきていますし、中川社長とも、まさしく僕たちがいざ取り組もうとしていたときに知り合うことができました。

インターネットの時代を迎え、この小さな島にいても、新しい展開に入っていくことはできるんじゃないか。あるいは、この宮古の文化を変えていく可能性を見いだせるんじゃないかという期待もいまは持ちはじめています。その可能性を、農業や地域作りにいかに結びつけていくことができるか・・・・・・。

地元のすべての人に理解してもらうのはまだまだ先のことですが、もちろん島内の自給率も上げていきたいですし、現時点で取り組めることはすべて、積極的に行動を起こしていきたいと思っています。
中川社長 川平さんにぜひ証明していただきたいことがあります。それは、本土では難しいといわれる無肥料自然栽培が、宮古島では決して難しくないということ、むしろ宮古島が無肥料自然栽培の適地だということです。そうして、無肥料自然栽培をやりたいという人たちが宮古島に集まり、無肥料自然栽培で育った農作物を買いたいという人の意識が宮古島に向いてくるならば、とてもすばらしいことだと思うのです。
川平俊男氏

ヘチマも雑草もなかよく共生中。「これぞthe無肥料自然栽培!」的風景

まったくその通りです。お話ししたように、これまでの有機栽培はどんどん専門的になって、生産者がまるで学者のようになってきています。しかしながら、過去には、そんな学問をしなかった人たちが、もっといいものを作ってきた時代があったのです。

いまは、誰もが、もっといいものを作れる農法が必要とされています。素人でもできるような農業技術に戻していかなくてはならないのです。僕はいま、そのための研究をしているし、これからも続けていきます。

たとえば、宮古島は降水量が比較的多くて気温が高いので、ありとあらゆる雑草が生えます。それを逆に利用しない手はありません。有機農家は除草に頭を抱えていますが、年がら年中生えてくる雑草は、宮古島の特質でもありますから、それを有効利用するような発想に変換できないかとも考えています。

宮古に育った不屈の精神

中川社長 宮古島出身の若い人たちには何を期待しますか。
川平俊男氏

新しい宮古の農業を、ベテランも若手も一緒になって築きあげていきたい

これは若い人に限らず、自分も含めてになりますが、時代が大きく変わりつつあるなかで、宮古島が持っている可能性というものにもっともっと気づいていくべきだと考えています。意識が向かなければ、何もでてきませんが、意識さえいつも向けていれば、次に何をやるべきかがきっと見えてくるはずです。

中川社長が見いだしてくださったように、島外から見た宮古島には、いろいろなすばらしい要素があるのだから、宮古の人たちにはぜひとも、もっと胸を張ってもらいたいです。そうして、一緒に宮古の宝を掘り出そうじゃないかと、機会がある毎に強調しています。宮古の未来に向かって、その宝をものにしようと。

若い人たちには、島内外で協力し合って、ぜひイニシアチブをとってもらいたいものです。その過渡期をつなぐのが我々の役目かなと思っています。
中川社長 川平さんは宮古島の何を一番誇りに思っていますか。
川平俊男氏 歴史的に刻み込まれた条件があるなかでも、宮古の特質であり、誇りであるのは、自立と自律の意識です。これは、数ある琉球の島々のなかでも最上級クラスだと思っています。

この意識はどうして育まれたかということですが、その理由は、やはり宮古の歴史のなかにあります。200年続いた琉球王朝の奴隷時代、八重山諸島には、王族内の内乱で負けた人々が流され、宮古島には、王族に反抗した貴族たちが流されてきたといわれます。そのため、宮古には悲しみではなく、非常に強い自立意識が育ったのです。この気質は、当時の民謡にも力強く謡われています。

「アララガマ精神」というのが、そういった宮古の人たちの特質を端的に表す言葉です。それは、支配されながらも築きあげてきた不屈の精神です。そういったすばらしい精神を伝統的に受け継いできたのです。

戦後はアメリカがやってきました。長く続く苦しい時代を乗り切ってきたのですから、その自立心をうまく焚きつけることができれば、現代に生きる我々が向き合っている農業のことも、そのほかのことも、足元からしっかりと築き直して、かならず乗り越えることができると信じています。

農業は手はじめであって、これがすべてではありません。農業を通じて経済基盤を固め、その基盤の上に、宮古の時代を復活させたいのです。そのためには、まず農業を立派な産業として築き上げなくてはなりません。基礎なくして、かけ声だけじゃ、生活には結びつきませんから。
中川社長 しかし、文化が維持されていることはほんとうにすばらしいことですね。
川平俊男氏 そのとおりです。宮古の人たちの持つ自立意識、力強さはほんとうにすばらしい。これからは、島外に出て行った人たちとの交流もより深めながら、宮古ならではの産業形態をしっかりと築いていきます。
私たちのリクエストに応えるために作付スケジュールを検討する川平さん
台風シーズンに訪問したため、ゆっくりとお話を伺うことができました
一日数時間の睡眠と一日一食(それも極めて軽く)が定着。でも元気!
川平さん宅で定期的に行われる勉強会は、意見&情報交換の場でもあります
赤い棒は明日には収穫できるという目印。毎日隅から隅までチェックします
こちらもまもなく食べ頃。ヘチマを使ったお料理は宮古の定番メニューです